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Fenriz(Darkthrone)解釈から考えるNeocrustの核


DarkthroneのFenriz氏

『Neocrust』に触れたとなればその源流を探りたいと思うのが人の性である。
以前メルマガのコラムに掲載したDarkthroneのネオクラスト観からさらに掘り下げて書いてみたい。
(参照記事) http://www.heavyblogisheavy.com/2015/11/20/starter-kit-neo-crust/

この記事では、彼はネオクラストの始まりをHis Hero Is Goneの『Monuments To Thieves』であると見ているが、音楽ジャンルのサウンド面ではなく構造で捉えているのが面白い。メタルコアはサウンドをソリッドに、より自らのスタイル(ジャンルの境界)を明確に構築していく性質がある一方で、ネオクラストはジャンルの境界を越えていく性質があったことに着目している。
ドゥーム、デスメタル、クラストの境界線をぶちこわしたHis Hero Is Goneの構造が、後のTragedyの構造(彼らは更にメロディックさを取り入れた)と重なる。Tragedy以降のネオクラストとして有名なのはFall Of Efrafa。彼らのポストメタル、アトモスフェリックな表現を取り入れていった姿勢も境界を越していくこととイコールだ。
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「ネオクラストはジャンルの境界を越えていく性質」があったことに着目したDarkthroneのFenrizのネオクラスト観はかなり核心を捉えている。クロスオーバー、は2010年代のテーマという説には同意する。ネオクラストに限らず、ブラッケンドも境界を壊したり超えて行こうとするエネルギーに満ちている。逆に言うと、一度境界を超えてしまってスタイルが出来上がってしまうとそのイデオロギーは力を失い次のフロンティアを目指す。今でも90年代のハードコアのレコードが売れ続けるのは人を魅了するエネルギーがそこにあるからだ。それがクラシックの意味だ。ジャンルに囚われてしまうと破壊的なエネルギーは削がれる。既存の価値基準を覆す破壊的なエネルギーの秘密を理解すること、それは音楽に限らずあらゆる方面に対して自らの価値を高める有効な方法を得ることにもなるだろう。

ネオクラストバンドがどこに集中していたかを調べてみると、その源流となった2000年代初頭のスペインに行き着くのである。ひとつのサブジャンルを築き上げたのはスペインの中でもガリシアという小都市だったのは非常に興味深い。スペインの地方都市ガリシアについては、3LAでリリースしたIctusのディスコグラフィーの解説に記載しているので是非参考にしてほしい。

Complete Discography / Ictus (Double CD)
Complete Discography / Ictus (Double CD)
3LAリリースの代表作でもあり、スパニッシュネオクラストEkkaiaに並んで最重要バンドIctusの完全版。2万字を超える歌詞対訳と解説でシーンの背景やバンドの歴史についてもがっつり解説しています。

Ekkaia,Ictus,Madame Germen,SL'S3,Das Plague,Blunt...etcスパニッシュ・ネオクラストを形作っていたバンドのほとんどがこの小都市に関係していた。一体当時この土地で何が起こっていたんだろう。港町であったことも大きな要素だろうし、大学や教育にも力を入れていたので学生が集まり易い土地だったことも関係しているかもしれない。ドイツのAlpinistの出身地ミュンスターもそういえば大学都市だったとwikipediaには記載されている。US激情シーンに革新を起こしたOrchidも大学の中から生まれたバンドだし、日本でも法政大学などいくつかの大学では激情ハードコアやアンダーグラウンドエモが先輩から後輩へと受け継がれている。大学であることが重要な要素だとは思わないが、ある種のモラトリウムがこういった地下音楽を支えているのは事実のようだ...このテーマは話題が逸れてしまうので別の機会にしよう。芸術を高めるにはある種のモラトリアム期間は欠かせない。

話を戻すと、スペイン勢の中でもStonehengeからLPがリリースされ世界中のアンダーグラウンドレーベル・ディストロのネットワークに乗って拡散されていったEkkaiaの存在はデカイ。音楽的にはTragedyから地続きのものだが、それはアンチでもポストでもなくオルタナティブな可能性だったんだなと今では思う。もし彼らが本流になる事があったとしたらまた結果が変わったのかもしれないけれど、ネオクラストはオルタナティブな可能性を秘めたもの、米英の巨大産業では成し得なかったもう一つの可能性、もう一つの未来、つまりは主流を獲るような性格なものでは最初から無かったのだろう。


もしスペインがもっと豊かだったら、音楽産業が巨大だったら、ガリシアという都市の属性が違っていたら、逆にこんな面白い音楽は作れなかったんじゃないだろうか。ネオクラストはジャンルまるごと多くの批判を受けたが、実はその構造自体が「ネオクラストとはどういう音楽だったのか」という事実をより浮き彫りにしていく。EkkaiaはそれまでのTragedyやHis Hero Is Goneなんかの「音楽的にカッコイイ要素」はもちろん、反帝国主義、反資本主義の精神性まで受け継いでいるし、そこにスペインの歴史が持つパッションを融合させている。この「融合」という要素がネオクラストの肝だ。DarkthroneのFenrizは境界を超えることと定義している。彼らの音楽にはクロスオーバーがある。過去から現在まで続くアンダーグラウンド音楽に新たな要素を配合する実験精神が当時のバンド達には感じられる。Ictusもまたクラシック音楽やデスメタル的要素が強かったしブラックメタルなんかともクロスオーバーしていったバンドもあってその形態は様々だ。

個人的にはIctusの徹底的に構築された美意識が好きだったが、ハードコア・シーンに一番人気があるのはEkkaiaの方だ。Madame Germenは未だ知る人ぞ知るという立ち位置だと思う。いくつかのバンドの音源は再発されたりしているが、中には本当にこの人たちは実在していたのかというバンドもいる。Das Plagueの音源は完全に都市伝説。現物を持っている人は存在するのだろうか。ネオクラスト以前にもネオクラスト的な音楽は存在していたけれど、何をもって「ネオクラスト」として区別できるのか。それは確実に欧州激情シーンの隆盛(2000年代のScreamo)が関係している。ネオクラストの主要な要素であるScreamoの隆盛、そしてそれらとの融合の歴史=欧州激情以降、という捉え方が正しいのだろう。「エモ・スクリーモの進化系」という捉え方が主流であることにはそれなりの理由がある。


リスナー的にはクラストから聴き始めてネオクラスト方面に流れていく人口はあまり多く無いと思う。逆に演者側は元々のクラストやデスメタル、グラインド界隈から始まっていることが多い。2000年代のネオクラストにはまだ黎明期特有のカオスさが残っていてその不器用な違和感、緊張感こそが最大の魅力だと思って、今でも聴く度に血圧が上がる様な感覚を持っている。
その感覚こそがネオクラストが核に持つクロスオーバーのエネルギーだ。

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